私は「食べる」ことが好きではありません。
いつも一人ぼっちだった幼い頃の残酷な孤独と「食」が、強烈に結びついているからです。
「食」に想いを乗せれば、寂しさと不安を際立てさせるばかりでしたから、私は「食」を捨て、がむしゃらに働いていました。果たして、20代で病に倒れました。
瀕死の私を救ってくれたのは、捨てたはずの「食」でした。その時出会った薬膳は、私に「食べる意味」をもたらし、自分との向き合い方を示してくれました。まさに「今」の自分を知るためのツールだったのです。未だに「食べる」ことは好きではありませんが、だからこそ、予断なく「食」と向き合えているのだと思っています。そして薬膳というツールは、私が次世代に手渡せる「幸せに生きるための唯一のバトン」だと胸を張って言えるのです。
「陰陽」という言葉を聞いたことがある方もいらっしゃると思います。この世界は、冬と夏、夜と昼、女と男など、相反しながらお互いに補完する性質のもので成り立っているという考え方です。それに呼応するように、仏教には「不二(ふに)」という言葉があります。それは「悪・善」などの二元論で世界を分ける必要はなく、対立する物事の根本は一体であるという意味です。
物事はすべて多面的で、立場が変われば評価も変わります。光があるから陰があるように、分けようと思っても分けられないのがこの世界です。
「陰陽」は、一見二元的に見えますが、季節が移ろい変わっていくように、二面性を融合させ、互いのバランスを保ちながら調和されていて、分けることはできない世界を示しています。
人も自然の一部ですから「陰陽」のバランスが崩れると、心身共に不調をきたします。
「悪い人・いい人」「損・得」「醜・美」などと物事を二元的に捉えては迷い、そしてそのどちらかを選ぶことで一層深い心の闇に墜ちていきます。夢も希望も、社会に溢れている情報からの借り物でしかなく、成りたい自分は、育てられてきた環境の中で染みついた既成の観念や価値観に埋もれてしまっています。人はそのギャップに悩み、苦しみ、自分には夢も希望もないと嘆くことになるのです。
この苦しみは、多かれ少なかれどなたも持ち合わせていて、違いは気づいているかいないかだけかもしれません。生き苦しい理由がわからないまま自分を諦めて嘆いてみたり、自分の代わりに子どもの人生をデザインしようとし始めたり、抑圧に縛られない人たちを羨ましいと憧れ妬んでみたり……。
しかし、人生もまた陰陽不二です。思い通りにならなかった人生も理想に近い人生も、その生き様はその人自身の姿です。自分自身の原点に還り、五感を研ぎ澄まし、陰陽の調和を図っていくなかで、自由な魂とありのままの自分でいられる安心感を手に入れませんか。
私には、それがとても心地よく愉しい人生に思えるのです。
自分に還るのに早いも遅いもありません。